第3部:真実という名の嘘。人は、自分にまで嘘をつけるのか

「命令されたから」は、責任を軽くしてくれるのか

人間について考えていると、ミルグラム実験も思い出します。

権威者から指示されたとき、人はどこまでその命令に従うのか。

参加者が、別室にいる相手へ電気ショックを与えていると思いながら、実験者の指示によって行為を続けるという有名な実験です。

この実験については現在、単純に、

「人間は権威に盲目的に従う」

だけでは説明できないという議論もあります。

それでも私は、

「命令されたから」

という言葉について考えてしまいます。

上から言われた。

会社の方針だった。

みんなやっていた。

自分には止められなかった。

自分で決めたわけではない。

そう考えることで、自分の責任が少し軽くなったように感じることはないでしょうか。

もちろん、本当に断れない状況もあります。

立場の弱い人にすべての責任を押し付けるのも違うと思います。

ただ、

実際に行動した自分まで消えるわけではありません。


「逆らえなかった」は、どこまで真実なんだろう

最近の「闇バイト」と呼ばれる犯罪のニュースを見ていても、同じことを考えます。

匿名・流動型犯罪グループ、いわゆる「トクリュウ」。

SNSなどで実行役を集め、途中で抜けようとすると個人情報を使って脅迫する。

本人だけではなく、家族への危害をほのめかされるケースもあるといいます。

「家族を盾に取られて、逆らえなかった」

そんな供述を聞くこともあります。

ここで、嫌な自分が出てきます。

本当に?

と思ってしまうんです。

どこまで逆らえなかったのか。

どこから自分の意思だったのか。

「命令された」という言葉で、自分の責任を誰かへ渡しているだけではないのか。

場合によっては、

もともと心のどこかにあった欲望へ、

「命令されたから」

という理由をつけているだけの人もいるのではないか。

そんなことまで考えてしまいます。

でも。

ここまで書いて、

また自分に返ってきます。

私は、その人の頭の中を見たのか?

見ていません。

家族を本当に脅されていたのかもしれない。

恐怖で正常な判断ができなかったのかもしれない。

本当に逃げられないと思い込んでいたのかもしれない。

警察も、実際に個人情報を使った脅迫で犯罪への加担を続けさせる手口があるとして注意を呼びかけています。

だとすれば、

「本当は犯罪をやりたかっただけなんじゃないか」

という私の考えだって、

私が勝手に作った物語です。

この記事の最初に書いた、

「あの人、私のこと絶対嫌いだな」

と、何が違うのでしょう。

こうやって考えていると、また堂々巡りです(笑)

ただ一つ思うのは、

事情を理解することと、

自分の行動に対する責任が完全になくなることは、

同じではないのではないかということです。

どこまで本人の責任なのか。

どこまで強制だったのか。

私は簡単には決められません。

だからこそ、

「逆らえなかった」の一言だけで全部分かった気にもなりたくない。

そう思っています。


「自分だけは大丈夫」が、一番危ないのかもしれない

ここまで書いていると、

「そんな人間にはなりたくない」

と思います。

私もそうです。

嘘をついて、それを自分で信じ込む。

都合の悪いことから逃げる。

責任を誰かに押し付ける。

そんな人間にはなりたくありません。

でも、ここでもう一度引っ掛かります。

「自分はそんな人間ではない」

と思っていること自体が、危ないのではないでしょうか。

騙される人も、

「自分は騙されるだろう」

と思って騙されるわけではありません。

間違った情報を信じる人も、

「これは嘘だけど信じよう」

とは思わないでしょう。

みんな、

……と言いかけました。

この記事で「みんな」を使ったらダメですね(笑)

おそらく多くの人が、

「自分はちゃんと考えている」

「自分は正しい」

と思っているのではないでしょうか。

私だって同じです。

だから、

自分だけは大丈夫。

自分だけはアイツらとは違う。

そう思ったときこそ、一度自分を疑ってみた方がいいのかもしれません。


個人が集まれば、組織になる

そして、この人間の都合の良さは、個人だけの話ではないと思います。

会社もそうです。

行政もそうです。

警察もそうでしょう。

政治の世界でも起こり得ると思います。

一人なら、

「自分は悪くない」

という言葉が、

組織になると、

「我々の対応に問題はなかった」

「適切に処理した」

「一定の責任を果たした」

という表現に変わることがあります。

もちろん、本当に適切だった場合もあります。

こうした言葉そのものが嘘だと言いたいわけではありません。

ただ、

間違いを認めた瞬間に、自分たちの立場や過去の判断まで崩れてしまう。

そんな状況になったとき、

人間の集団は、どこまで自分たちを客観的に見ることができるのでしょうか。

私はそこに疑問があります。


「責任を取る」って何だろう

最近、福岡県議会を巡るニュースを見ました。

議長・副議長ポストを巡る金銭授受疑惑などで県議会が混乱する中、蔵内勇夫議長が、

「議長として県議会を混乱させた責任を取る」

として、議長職を辞任する意向を示したというニュースです。

一方で、議員辞職は否定しています。

金銭授受疑惑についても本人は否定しています。

ですから私は、

「実際に金銭を受け取った」

とも、

「疑惑から逃げている」

とも断定するつもりはありません。

それをやってしまえば、

この記事でずっと書いてきた、

自分が信じたい物語を先に作ってしまうこと

と同じになってしまいます。

ただ私は、このニュースを見て、

「責任を取る」って何だろう。

と思いました。

議長職を辞めれば、議長としての責任を取ったことになる。

そういう考え方もあるでしょう。

議員として選ばれた以上、任期を全うすることも責任だという考え方もあると思います。

疑惑を第三者に検証してもらうことこそ責任だ、と考える人もいるでしょう。

どれが正しいのか。

私には分かりません。

ただ、

同じ「責任を取る」という言葉でも、

使う人と受け取る人によって、これほど意味が違う。

そこにも「真実」という言葉と似た曖昧さを感じます。


では、何を信じればいいのか

こう考えていくと、

何も信じられなくなりそうです。

証言は間違うかもしれない。

記憶も変わる。

本人が嘘をついている自覚すらないかもしれない。

「みんな」は誰か分からない。

「一般常識」も、誰が決めたのか分からない。

肩書があるだけで、同じ言葉が急に正しく聞こえることもある。

組織には立場がある。

政治には利害もある。

では、

「真実」はどこにあるのでしょう。

本当の私は、

もう映像しかないんじゃないか。

と思いました。

防犯カメラ。

ドライブレコーダー。

録音。

こうした記録なら、人間の記憶より信用できると思ったからです。

でも、考えてみれば映像にも死角があります。

前後を切れば意味が変わることもある。

映っていない場所で何が起きたのかは分かりません。

今では生成AIで、本物のような映像まで作れるようになりました。

結局、映像一つですら、

「これが絶対の真実だ」

とは言い切れない時代になっています。

だから今の私は、

一つの証言。

一つの映像。

一人の専門家。

一つの記事。

一つのAI。

それだけで、

「これが真実だ」

と決めない方がいいのではないかと思っています。

違う角度から事実を重ねる。

反対の意見も見る。

できるなら一次情報まで確認する。

それでも完全な真実には届かないかもしれない。

でも、

少しでも近づこうとすることはできる。

それくらいしか、人間にはできないのかもしれません。


今回のまとめ

「命令されたから」「逆らえなかった」責任は誰のものなのか

「命令された」

「逆らえなかった」

「家族を脅された」

そこには、本当に逃げられないほどの恐怖があったのかもしれません。

一方で、

「だから自分には責任がない」

と考えることで、自分を守っている部分もあるのかもしれません。

私には、その人の頭の中を見ることはできません。

だから、

「本当はやりたかっただけだ」

と私が決めつけるのも違う。

それも結局、

知らない部分を自分の想像で埋めて、「これが真実だ」と思っているだけです。

また自分に返ってきました(笑)

人を疑っていたはずなのに、

最後には、

その人を疑っている自分の判断まで疑わなくてはいけなくなる。

本当に面倒な生き物です。人間は。

では結局、

誰の言葉も完全には信じられず、

自分の判断すら完全ではないとしたら、

私は何を基準に生きればいいのでしょう。

次回、最後はそこまで考えてみたいと思います。

「真実という名の嘘」最終第4部は、9月日(水)公開予定です。


まさまさのプロフィール

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