「みんな言ってるよ」の、みんなって誰?
私は昔から、
「みんな」
という言葉があまり好きではありません。
「みんなそう思ってるよ」
「みんな言ってるよ」
「普通はみんなそうするよ」
こういう言葉です。
でも、その「みんな」って誰なのでしょう。
3人?
10人?
会社全員?
日本人全員?
聞いてみると、
「○○さんも言ってたし、△△さんも……」
となることがあります。
二人じゃん(笑)
と思ってしまいます。
でも、
「○○さんと△△さんが言っていた」
より、
「みんな言っている」
の方が、なぜか圧倒的に強く聞こえます。
言われた側も、
「自分だけがおかしいのか?」
と思ってしまう。
実際には人数すら分からないのに。
これほど曖昧なのに、真実っぽく聞こえる言葉も珍しいと思います。
「一般常識」という便利な盾
同じように、私は、
「一般常識」
という言葉も気になります。
「そんなの一般常識でしょ」
と言われた瞬間、話が終わってしまうことがあります。
でも、
その「一般」は誰なのでしょう。
どこからどこまでが一般なのでしょう。
誰が常識と決めたのでしょう。
もちろん、社会の中で広く共有されているルールやマナーはあります。
それまで否定するつもりはありません。
ただ、
自分の考えを、
「私はこう思う」
と言うのではなく、
「一般常識ではこうだ」
と言った瞬間、
自分の後ろに巨大な「世間」を立たせることができます。
自分の意見なのに、社会全体の意見みたいな服を着せる。
それが私はどうも好きになれません。
昔、朝日新聞で「曖昧」をテーマにした連載のような記事を読んでいた時期がありました。
それを題材に、私は一本台本を書いたことがあります。
考えてみれば、
「あいまい」
という言葉自体、どこからどこまでが曖昧なのか曖昧です(笑)
私は昔から、こういう堂々巡りが好きだったのかもしれません。
肩書を知った瞬間、同じ言葉が「真実」になる
もう一つ、人間って面白いなと思うことがあります。
全く同じ話を聞いていたとしても、
相手の肩書を知らないときには、
「本当かな?」
と思っていたのに、
「○○大学教授です」
「医師です」
「弁護士です」
「大企業の社長です」
と聞いた瞬間、
急にその言葉が真実っぽく聞こえることがあります。
話している内容は、一文字も変わっていないのに。
変わったのは、
聞いている自分の頭の中だけです。
もちろん専門家の知識は重要です。
病気なら医師。
法律なら弁護士。
専門的な判断をするとき、その分野の専門家を頼るのは当然だと思います。
ただ、
専門知識を持っているから、その分野について信頼度を高く見ること
と、
肩書が立派だから、この人の言うことは正しいと思うこと
は、少し違うような気がします。
そして私は、自分自身がこれで失敗したことがあります。
有名人だから信じて、私は一度失敗した
以前、ある有名芸能人がSNSの広告に出ていたサプリメントを購入したことがあります。
初回500円。
私は、
「有名な人が広告しているんだから、さすがに変なものではないだろう」
と思って申し込みました。
ところが、その後商品が送られてきて、
約16,000円の請求。
私としては、定期購入を申し込んだ認識などありませんでした。
驚きました。
広告をもう一度確認したくても、SNS広告です。
同じものをもう一度探すのは簡単ではありません。
消費生活に関する相談窓口などにも問い合わせました。
でも当時の私は、
「結局、申し込んだ自分が悪いと言われているようなものだな」
と感じました。
本当に困りました。
夜も眠れないくらい考えました。
そこでネットを探していると、同じような販売方法について情報をまとめている人たちがいました。
さらに調べていくうちに、以前、似たような事案に関わった経験があるという弁護士の方を見つけ、連絡することができました。
事情を説明したところ、
「放っておいて大丈夫ですよ」
という趣旨のことを言われました。
その一言で、
ものすごく気持ちが楽になったのを覚えています。
今考えると面白いですよね。
それまで何人に話しても不安だったのに、
「弁護士」という肩書を持った人から言われた瞬間、私は安心した。
本当に大丈夫なのか。
その時点では、私に分かるはずもありません。
でも、
「この人が言うなら大丈夫だろう」
と思った。
最初は、
有名芸能人だから信じた。
その後は、
弁護士だから信じた。
方向は真逆なのに、私はどちらも「誰が言ったか」で判断しているんです。
最終的には、自分の意思を内容証明郵便で送り、その後届いた商品も受け取らないようにしました。
しばらくすると商品も来なくなりました。
数年後、ふと思い出して調べたら、その会社は倒産していました。
結果だけを見れば、
「あの弁護士の言う通りだった」
と思いたくなります。
でも、それだって結果論です。
この経験から私が学んだのは、
有名人だから信じるな
でも、
専門家だから信じるな
でもありません。
話を聞く。
材料にする。
でも最後は、
自分でも調べて、自分で決める。
それが必要なんだと思いました。
人の罪悪感まで利用できる
もう一つ、昔のことを思い出しました。
劇団に稽古体験へ来ていた人がいました。
稽古中、その人が転びました。
かなり痛そうに見えたので、こちらも申し訳ない気持ちになりました。
次の日、その人は松葉づえをついて稽古場に来ました。
私は、
「そんなにひどかったのか」
と、さらに申し訳なく思いました。
その後、その人からあるセミナーのようなものに誘われました。
私は過去にネットワークビジネスへ誘われた経験が何度かあったので、
「おそらくそういう類だろうな」
とは思いました。
それでも、
怪我をさせてしまったかもしれない。
という気持ちが、どこかにありました。
ある日、その人の職場の近くをたまたま通りました。
すると、
普通に歩いていました。
松葉づえもありません。
「あれ?」
と思いました。
もちろん、その瞬間だけ体調が良かった可能性もあります。
私が知らない事情があったのかもしれません。
だから今になって、
最初から怪我を演技していた
と断定するつもりはありません。
ただ、そのときの私は一気に信用できなくなりました。
後日、謝罪の手紙のようなものも届きましたが、私は返事をしませんでした。
そこで関係を終わらせました。
本当は何があったのか。
今でも分かりません。
でも私は、一度、
「この人には裏切られた」
と思った相手には、基本的にもう近づかないようにしています。
少し悲しい生き方なのかもしれません。
本当は誤解だったこともあるでしょう。
人間なのだから、一度間違えただけのこともあるでしょう。
それでも私は、
他人に自分の人生まで翻弄されたくない。
だから、その選択でいいと思っています。
少なくとも、
誰と付き合うかを決めた責任は、自分で取りたい。
今回のまとめ
「みんな」「一般常識」「専門家」を、なぜ私たちは信じるのか
有名人だから信じた。
専門家だから安心した。
「みんな」が言っているから、自分の方がおかしいのかと思った。
「一般常識」と言われたら、反論しづらくなった。
考えてみると、
私たちは思っている以上に、
「何を言っているか」ではなく、「誰が言っているか」「何人が言っているように見えるか」で真実らしさを判断しているのかもしれません。
もちろん、他人の知識や経験を借りなければ生きていけません。
全部を自分一人で調べることなんて不可能です。
だから問題なのは、他人を頼ることではなく、
判断そのものまで他人に預けてしまうことなのではないか。
そんなことを考えました。
そして、ここからさらに厄介な疑問が出てきます。
自分で決めたつもりでも、
「上司に言われたから」
「会社の方針だったから」
「逆らえなかったから」
そう言えば、自分の責任はどこまで軽くなるのでしょう。
次回は、
「命令されたから」という言葉と、人間の責任について考えてみたいと思います。
「真実という名の嘘」第3部は、9月16日(水)公開予定です。

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