第1部:真実という名の嘘。人は、自分にまで嘘をつけるのか

先日、久しぶりに地上波で『となりのトトロ』を観ました。

子どもの頃から何度も見ている作品。

あの田舎の風景。

森。

古い家。

サツキとメイ。

何度見ても、やっぱりいい作品だなと思う。

ところが観ているうちに、昔からネットで語られている、ある都市伝説を思い出しました。

『となりのトトロ』と、1963年に埼玉県狭山市で起きた「狭山事件」を結びつける話。

サツキは「皐月」。

メイは英語の「May」。

どちらも5月を意味する。

『となりのトトロ』は所沢の自然や風土から着想を得た作品とされています。

こうしたことから、事件との関係を想像する人が出てきたのでしょう。

もちろん、だから何か関係があるという話ではありません。

スタジオジブリも、「トトロは死神」「メイは死んでいる」といった有名な説については、公式に都市伝説だと否定しています。

私も、

「トトロには狭山事件が隠されている」

と言いたいわけではありません。

むしろ考えているうちに、私の興味はそこから離れていきました。

私が引っ掛かったのは、

人間は、なぜそこまで「本当のこと」を知りたがるんだろう。

ということ。

そしてもう一つ。

真実を知りたがる一方で、

人間は、自分にとって都合の悪い真実からは逃げようとすることもある。

ということです。

トトロを観ていただけなのに、ずいぶん遠いところまで来てしまいました(笑)


そもそも「真実」って何だろう

狭山事件では、石川一雄さんの無期懲役が確定しました。

石川さんは長い服役を経て仮釈放されたあとも無実を訴え続け、再審を求めていましたが、2025年3月、86歳で亡くなりました。

この事件について調べると、

「冤罪だ」

という意見が数多く出てきます。

一方で、確定した有罪判決が存在しているのも事実です。

私は当時その場所にいたわけではありません。

捜査をしたわけでもありません。

裁判資料をすべて読んだわけでもありません。

だから、

本当は何が起きたのか。

その絶対的な答えを、私が知っているわけがありません。

だからこそ、怖いのです。

人間は、本当に経験した出来事を、そのまま記憶しているのでしょうか。

そして、人間が「これが真実だ」と信じているものは、本当に起きた出来事そのものなのでしょうか。


嘘は、薬より効くことがあるのかもしれない

例えば、自分が取り返しのつかない事故を起こしたとします。

その事実を認めれば、自分の人生が変わる。

誰かの人生も変えてしまった。

家族にも迷惑をかける。

仕事も失うかもしれない。

ものすごいストレスだと思います。

そんなとき、

「俺じゃない」

「俺はやっていない」

「自分は悪くない」

と何度も自分に言い聞かせたら、人間の心はどうなるのでしょう。

最初は、自分でも嘘だと分かっていたとしても。

100回。

1000回。

何年も。

何十年も。

同じことを自分自身に言い続けたら。

いつか本人の中では、本当に「やっていない」という感覚に近づいてしまうことはないのでしょうか。

そんなことを考えているうちに、

嘘は薬より効くことがあるのかもしれない。

という言葉が浮かびました。

もちろん、本当に薬と効果を比べているわけではありません。

自分にとって耐えられない現実そのものを、自分の中だけで別のものに変えてしまえたら。

それほど強力な「心の逃げ道」はないのではないか。

そう思ったのです。

実際に起きた出来事が消えるわけではありません。

変わってしまうのは、

自分の中にある真実です。

そこが怖いと思ったのです。


「あの人、私のこと絶対嫌いだな」

でも、これは犯罪や事故のような極端な話だけではないと思います。

もっと身近なところでも起きています。

「あの人、私のこと絶対嫌いだな」

と思ったことはないでしょうか。

相手の返事が、いつもより少し短かった

挨拶したときの反応が薄かった

自分だけ会話に入れてもらえなかった気がした

LINEの返信が遅かった

本当は、相手が疲れていただけかもしれない。

考え事をしていただけかもしれない。

そもそも、こちらのことなど何とも思っていない可能性だってあります。

それなのに、

「あの人は私を嫌っている」

という答えを、自分の中で作ってしまう。

ここで私は、少し不思議に思います。

多くの人は、嫌われるより好かれたいと思っているはずです。

それなのに、なぜわざわざ、

「私は嫌われている」

という、自分にとって嫌な方を想像するのでしょう。

本当に、嫌われていてほしいのか。

そんなはずはないと思います。

では、なぜなのでしょう。

もしかすると、

「理由が分からない」

という曖昧な状態よりも、

「嫌われているからだ」

と答えを決めてしまった方が、頭の中では整理しやすいからなのかもしれません。

本当のことは分からない。

でも、分からないままにしておくのは気持ちが悪い。

だから空白に、自分なりの答えを入れてしまう。

そして一度、

「あの人は私を嫌っている」

と思ってしまうと、その後の相手の行動まで違って見えてきます。

返事が短い。

やっぱり嫌われている。

目が合わなかった。

やっぱりそうだ。

他の人とは楽しそうに話していた。

ほら、やっぱり私だけ嫌われている。

最初に作った結論に合うものばかりが、証拠のように見えてくる。

でも、

本当にそうなのでしょうか。


「あの人、あなたの悪口言ってたよ」

さらに怖いのが、そこへ第三者が入ってきたときです。

「あの人、あなたの悪口言ってたよ」

こんなことを言われたらどうでしょう。

本当かもしれない。

嘘かもしれない。

一部分だけ本当なのかもしれない。

前後の会話を切り取っただけかもしれない。

でも、一度聞いてしまったら、なかなか頭から消えません。

しかも本人に、

「私の悪口言ってた?」

とは、なかなか聞きづらい。

勇気を出して聞いて、

「言ってないよ」

と言われても、

「本当かな」

と思ってしまうかもしれません。

聞いても、聞かなくても、疑いだけが残る。

そして次にその人と会ったときから、

今までとは違う目で相手を見る。

たった一言です。

それだけで、人間関係そのものが変わってしまうことがあります。

私は、こういう言葉をわざわざ伝えてくる人についても、ときどき考えます。

本当に親切心なのでしょうか。

「陰で悪く言われているから、教えてあげよう」

もちろん、そういう場合もあるでしょう。

でも、本当に相手のためを思うなら、

伝えないという選択もあるはずです。

それとも、二人の関係を悪くしたいのでしょうか。

疑心暗鬼にさせたいのでしょうか。

「あなたの味方は私だけだ」

と思わせたいのでしょうか。

他人の感情を動かして、自分の望む方向へ誘導したいのでしょうか。

私には分かりません。

本人にしか分からないことなのかもしれません。


「私はあなたの味方だよ」は、本当に味方なのか

もっと不思議なのが、

こちらには、

「私はあなたの味方だよ」

と言いながら、

別の人の前ではこちらの悪口を言っている人です。

こういう人もいます。

でも、もしかすると本人の中では、

「私は嘘つきだ」

という感覚すらないのかもしれません。

私の前にいるときは、本当に私の味方。

別の人の前にいるときは、本当にその人の味方。

その瞬間、その場所、その相手によって、自分の中の「真実」が変わっている

そんなこともあるのではないでしょうか。

そして後から、

「あのときは本当にそう思っていた」

と言われたら。

それも、その人の中では嘘ではないのかもしれません。

ここまで考えると、

嘘って何だろう。

と思います。

最初から相手を騙そうとして言うことだけが嘘なのか。

その瞬間には本気で信じていたことなら、あとで正反対のことを言っても嘘ではないのか。

自分で自分を信じ込ませてしまったら、それは本人にとって真実になるのか。

だんだん境界線が分からなくなってきます。


今回のまとめ

人は、自分の中に「真実」を作ってしまうのか

「あの人は私を嫌っている」

「あの人は嘘をついている」

「私は間違っていない」

そう思っている本人にとっては、それが本当に「真実」なのかもしれません。

でも、その真実は、

実際に起きた出来事そのものなのか。

自分の記憶なのか。

誰かに言われた言葉なのか。

それとも、自分の頭の中で作った物語なのか。

考えれば考えるほど、境界線が分からなくなってきます。

そして次に気になったのが、

自分で作った真実だけではなく、他人から渡された「真実」を、私たちはなぜこんなに簡単に信じてしまうのか。

ということでした。

「みんな言ってるよ」

「それ、一般常識でしょ」

「専門家が言っているんだから間違いない」

たったそれだけで、同じ言葉の重さが変わってしまう。

次回は、その不思議について考えてみたいと思います。

「真実という名の嘘」第2部は、9月9日(水)公開予定です。


まさまさのプロフィール

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